飛田新地の遊び方ガイド

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飛田新地はなぜ生まれた?その歴史とは?

2016/12/03

飛田新地はいかにして生まれたか

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日本最後の遊郭とも呼ばれる『飛田新地』。その歴史は明治45年からはじまる。遊郭の歴史から考えれば、まったくもっての新参者である。

明治45年、すなわち1912年の1月16日に、難波新地乙部遊郭が全焼した。のちにミナミの大火と呼ばれる大火事である。南区難波新町の風呂屋『百草湯』の煙突から飛んだ火の粉が貸座敷『遊楽館』に燃え移ったことで起きてしまったと言われている。

燃えてしまった土地で働いていた業者は移転や廃業をすることになる。その業者たちの手によって、飛田新地は生まれた。明治大正の頃は花街として栄え、世界大戦の戦火から逃れた唯一の遊郭となった。戦後は公認で売春が行われた、いわゆる赤線となった。

1958年に売春防止法が施工され、それに対応するため料理街『飛田料理組合』へと転向した。

 

転向後の飛田新地

法規制後、その摘発から逃れるために料理街『飛田料理組合』へと変化したが、その概要に変化はない。今までと変わらぬ営業がなされているのだ。

それどころか、今も新しい店は増え続けている。風俗とは、少し違う形態のまま、色街としての雰囲気を楽しむことができる。一度は楽しんでいただきたい空気がここにはある。

より歴史を楽しみたいのであれば、妖怪通りに足を運ぶことをオススメしたい。その店構えは、古き時代の特徴を残したままとなっている。もちろん、そこの利用をするには、すこしばかり変わった性癖が必要とされるのであるが、それは実際に行けば理解できるだろう。

完全なる閉鎖空間として文化を存在させてきていた飛田新地であるが、その有り様は徐々に変化しつつある。それは夏祭りの開催時に、写真撮影を完全自由とはいわないまでも許可したことにも現れている。

その名を知っていても、実際にどんな場所なのかを知っている人は案外少ないのが飛田遊郭の特徴である。そのひとつに、完全なる撮影禁止があることはいうまでもない。

今の御時世に写真撮影をゆるせばSNSで拡散されるのは目に見えている。今まではそれをしなかった。花街を営む人たちにとっても、花街で遊ぶ人たちにとっても、とても好ましいことだったからだ。

だが変化している。完全にいつでも時間自由に写真撮影が許される日は、その性質上、決して来ないだろう。しかし、すこしずつ変わっている。時代に合わせた変化はどこまで飛田新地を進化させていくのか。

今後の飛田新地がどうなるのかも、考えてみると面白いかもしれない。

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